着地点

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大学時代のメモ第4弾。
以下、メモ。

保存可能作品と保存不可能作品。
着地点とは?
 その作品が、どのように展示されるか。保存されるか。利用されるか。といった制作が終了した時点からの存在方法。公開方法。

 前者は絵画、彫刻などのいわゆる古典的な芸術である。後者はインスタレーション、パフォーマンスなどの、比較的、即興的な手法による。これらの作品の発表の着地点は大きく違う。絵画、彫刻は過去、教会で神を讃えるためため、つまり教会を飾る為に描かれた。恒久的な展示場所が確保されていたのだ。だから作家は自信の作品の最終着地点についての心配はなかった。
 ところが今ではその着地点がおぼろげになってきている。
 美術の発表が必ずしも壁に架けられるモノではなくなり、その方法すら作者の責任になってきたと言える。展示方法が作品そのものの作品性に影響を及ぼす事実は、ひたすらに作品を作るだけの純朴な作家をも脅かすに至る。
 どちらにしろ、私達は自分の作品の着地点を発見あるいはつくり出さねばならくなった。しかしこの事実を自覚している作家は稀だといっていい。

 なぜならインスタレーションと美術館での展示を同列の「展示方法」として扱ってはいないはずだから。例えば次の言葉は成立せねばならない。
「絵画をインスタレーションする」
 油絵が壁に掛けられる可能性と同様に、インスタレーションとして発表される可能性ももっているはずだ。だがそうはならない。実際には
「絵画でインスタレーションする」つまりインスタレーションの道具として絵画を用いるという、インスタレーションの主体化が行われてしまうのだ。インスタレーションは独自のジャンルとして確立されたことが事態をややこしくさせている。
 インスタレーションの一言でまとめられる様々な作品発表形態は、何かしらの空間演出的発表と言い換えほうがよさそうだ。

 油絵にしろ、日本画にしろ、展示には不釣り合いな場所がある。美術館では同様の壁に同列に陳列されるが、実際は隣り合う作品によって見え方も違ってくる。そう感じている作家は多く、それは危惧せねばならない事実でもある。しかし、未だに展示方法は作家の領分でなない、つまり古典的美術のように展示場所はあらかじめ限定されているという信仰がある。感覚的には不釣り合いを感じているのに、壁に掛けてしまう。
 そろそろ、作品の着地点を積極的に設けなければならない。

 普通の油絵にしても、恒久的に一カ所に留まることは少ない。システィナ礼拝堂のミケランジェロ「最後の審判」のような例は幸運だと言っていい。あの壁画はあの場所のために描かれた。今は展覧会の度に違う美術館の壁を装飾している。
 その場合、着地点は不特定の壁の「移動式展示」。
 
 作品をよりよく見せる努力をする人がいる。壁の色を塗り替えるだとか、ある一定の条件を満たしていれば、ある程度の違いは許容範囲。
 「移動式展示演出付き」となる。
 絵画以外では、映画もこの位置にくる。作品自体はフィルムとしてあるが映画館自体は音響設備、スクリーンが様々に違っているが、観客は同一の作品と認識する。

 建築の場合ははっきりと着地点を目指して設計される。作品は人が住む、利用する為にあり、その着地点(使用方法)は人が住む、利用するためと、作品の目的自体が同時に着地点となる。「最後の審判」のように目的がはっきりしている。

 インスタレーションは演劇と考えれば分かりやすいか。作品として完成形ははっきりしているが、それは保存されうる物ではない。「限定的空間演出」とでもしようか。楽譜は完成しているが、楽団や指揮者、時によって全く違った演奏になる音楽はこのジャンルになるだろう。

 音楽はCDに定着される可能性をもっている。CDとして音楽を発表されつつ、ライブが行われるのは着地点を能動的に操作している。美術で言えば、作品集として出版すると言うところだろうか。

 ドラマの着地点は、テレビと映画では全く違う印象がある。
 週刊誌のマンガが後に単行本化されるがこの二つはやはり違う着地点と言っていい。

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