芸術と身体性

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形而上学の霧散。目や耳からの刺激、情報の氾濫。ありふれた美術。自己満足の絵画。空間を確保できない造形物。人を部屋に縛り付ける映画。
そこに残る可能性としての建築。プロダクトデザイン、一人称のデザイン。生活。

なーんてことを美大生の時に考えてたらしい。
hddを整理していて昔のファイルがでてきた。
懐かしくなって読んでたら、うーん、若い。文章が若い。
でも今よりもずっと物事を考えてたなー。
今は仕事に追われて頭を使うことがなくなってきた事を痛感。

これを書いたのは2000年頃、blogが流行ってたら美術ブログなんかをやってたかも。
以下も美大時代のメモ。

「痕跡」

「鉛筆の手書きの痕跡には確かにその書き手の個性が表われ、あたかも思考の痕跡と混同する印象があることは認めるが、これが幻想だ」(『プラトンのオルゴール』川崎和男)
「手書きの味」「手作りの味」幻想。身体の延長線上としてのペンや絵筆で描いた痕跡には、魂が宿るという幻想。ワープロよりも手書きの手紙にこそ心がこもる。手がきの線であるがゆえの線の不均等さや偶然、明らかな失敗すらも「味」として肯定するのは感性が優れているとはいえず、気分程度のことでしかない。

「芸術と市場とパトロン」

 最近、映画館がすごいらしい。もともと、無声映画から始まりトーキーになり、今ではドルビーサウンドが流行している。そのうち、客席のシートに仕掛けが組み込まれ、映像と連動して振動するというアトラクション的なものまで登場しつつあるそうだ。もともと、実体験できない事を映像にし、映像のみの力で観客の想像力を刺激して追体験させていたものが、技術の進歩により、実現可能になった。映画館離れが進んでいるらしい中の、当然の流れなのだろうか。もちろん、それを率先して行っているのが、ハリウッドだ。
 娯楽超大作指向はフイルムのみの力に固執せず、いかに客を楽しませるかが第一重要事項らしく、そのためには映画館がテーマパークになろうともお構いなしである。


誰しもそうだが若い時って尖ってて、自分が世間を変えられると思ってた。
さすがに30代になるとそうでもないなーと、思わなくもないけど。
でも、失いたくないモノもある。

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